武田池の狐(ひたちなか市)
一本松溜という名は、池の南岸の高台に照道寺という寺があり、そこに「一本松」と呼ばれる松の木があったことに由来します。
永治元年(1141年)にこの寺を創建した陰西というお坊さんが、インドから持ち帰って蒔いた松の実が成長したものだといわれています。
松の葉はふつう針状で、二~三本または五本が束状になっていますが、不思議なことにこの松の葉は一本だったのです。たいへん珍しいので「勝倉の一本松」と呼ばれ、広く知られることになったのだそうです 。
その一本松もやがて老木となって明治三十年(1897年)に倒れてしまい、今は勝倉の字名に名残をとどめていたことを知る人も少なくなってしまいました。
また、稲荷ヶ谷津の地名については次のような話が伝わっています。
徳川光圀の寺院整理政策により照道寺が廃寺*2となりました。すると、池のほとりに狐がたくさん棲みつくようになったのです。質の悪い狐たちは畑の作物を荒らしたり、赤ん坊を襲ったり、民家を焼いたりと、いたずらのし放題。村人たちはとうとう我慢しきれず、狐たちを退治してしまいました。
ところが、その後、原因不明の流行病が村を襲ったのです。悪い病はおさまるところを知らず、どんどん広がるばかり。困りきった村人たちが山伏*3を呼んで祈祷してもらうと、何とそれは狐のたたりだというのです。
そこで、村人たちは、池のほとりに稲荷*4を建てて祀り、流行病の退散を祈願したところ、病はやっと鎮まったのだそうです。これが稲荷ヶ谷津という地名の由来だといわれています。
もう一つ、この地には「才三郎狐」についての言い伝えがあります。才三郎は名前の通り知恵がある狐で、秋になると毎晩、那珂川べりで鮭を捕っては水戸の城下に売りに行っていたというお話です。
また、才三郎という村の若者が、密漁した鮭を売っては酒の飲み代にしていましたが、ある晩、狐に化かされて鮭を取り上げられてしまいました。そこで、この狐を才三郎狐というようになったのだという名前にまつわる話も伝えられています。
参考資料- 「勝田市史 民俗編」(勝田市)
「勝田市の歴史」(勝田市)
「村の歴史 勝倉の地名」(武石均著)