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村人を救った庄屋佐七(ひたちなか市)

ひたちなか市三反田、ここには、「腹切り佐七」という悲しい義民*1伝承が残っています。

今から二八〇年ほど前、享保年間の夏のこと、十日以上も続いた暴風雨により、各地で洪水や山崩れによる土石流がおこり、多くの人々が田畑をはじめ住む家さえもなくしてしまいました。

特に、那珂川沿いの三反田は川の氾濫で大きな打撃をうけたのです。

そして、嵐がおさまった後、村人たちを待っていたのは深刻な「飢え」*2でした。もともと凶作*3で食べるものがなく、野草などで飢えをしのいでおりましたが、次第にそれもかなわなくなり、村人は次々と死んでいきました。

村人たちの苦しみをみかねた三反田の庄屋佐七は私財を投げ打って村人の救済に当たりましたが、やがて財も尽きたため、藩に年貢*4の減免と藩米の開放を嘆願したのですが、聞き入れられませんでした。そこで、郷蔵*5を開け、藩に納める米を分け与えて村人たちの命を救ったのです。

もちろん、藩に納めるべき米を自分の判断で村人に分け与えることはご法度*6であり、一族へのおとがめは免れません。佐七はその責任を一身に負うため、妻子四人を殺し、自分は切腹して命を絶ったのでした。

村人たちは、村を救ってくれた佐七に感謝し、一家の亡きがらをねんごろに葬りました。

かつてその墓所は小さな塚があるだけでしたが、大正年間になって、村山妙種という尼僧により佐七尊霊堂が建てられました。

現在は、日蓮宗のお寺「佐七山福道寺」となっています。佐七一族二百五十回忌前年の昭和四十五年には、旧霊堂と墓所を整理し、新たに供養塔が建立されました。

その立派な五輪供養塔のそばには、「義民佐七一族累代の墓」の石碑が建っております。また、本堂には、義民佐七の座像も納められています。

 
*1 義民
正義・人道のために一身をささげる民。江戸時代、百姓一揆の指導者などを呼んだ。
*2 飢え
うえること。ひもじいこと。
*3 凶作
天災や気候不順のため、農作物の実りがきわめて悪いこと。
*4 年貢
荘園領主や大名が農民に課した租税。
*5 郷蔵
江戸時代、年貢米の保管、凶作に備える貯穀のため、郷村に設置された共同穀倉。
*6 法度
禁止されている事柄。禁令。禁制。


参考資料
「勝田市史 民俗編」(勝田市)
「茨城の伝説」(今瀬文也・武田静澄共著)

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