SERIES連載記事

弁慶の運んだ釣鐘(鉾田市)

以前、本欄で鉾田市(旧旭村)子生に伝わる「竜宮からの贈り物」という次のような話を紹介しました。

むかし、子生の浦の沖に浮かんでいた二つの釣鐘*1を村の漁師達が引き上げ、竜宮から府中*2(石岡市)の国分寺*3への贈り物に違いないと考えて寺に寄進*4しました。その後、この釣鐘は「雄鐘・雌鐘」と呼ばれるようになりますが、ある時、雌鐘のほうが盗み出され、盗人が運ぶ途中で突然の嵐に遭い、舟ごと霞ヶ浦の底深く沈んでしまったという伝説です。

ここには、同じ釣鐘にまつわる別の言い伝えも残されています。
むかし、国分寺のお坊さんが、夏海(大洗町)の鹿島神社の近くを通りかかった時のことです。村の子供達が集まって何やら騒いでいるので近づいてみると、白蛇をつかまえて殺そうとしているのです。

お坊さんは、「これこれ、殺してはいけない。白蛇は神様のお使いじゃ。逃がしてあげなさい。」といって白蛇を助けてあげました。
実はこの白蛇は鹿島神社の主だったのです。その後、白蛇は美しい姫の姿となってお坊さんの前に現れ、「先日はお助けいただきありがとうございました。お礼に国分寺に釣鐘を寄進いたしましょう。」というとふっと消えてしまいました。お坊さんがあたりを見回すと、近くの松の木の枝に二つの釣鐘がかかっておりました。

国分寺の鐘をつくるための寄付集めに諸国を旅していたお坊さんは大喜び、さっそく、この釣鐘を国分寺に運んだという話です。

その二つの釣鐘を府中まで運んだのが武藏坊弁慶であったという言い伝えがあります。その説に因んだ地名も旧旭村地区に残っています。

力自慢の弁慶も二つの鐘を運ぶのに大変苦労したようで、沢尻と上太田の中間の原っぱまで七日もかかったことからそこが「七日っ原」、八日目に一休みをした田崎の堤が「八日堤」と名づけられ、弁慶のひく大八車*5の心棒(こみ)が田崎の橋の上で折れてしまったことからその橋は「こみ折れ橋」と呼ばれるようになったのだそうです。
弁慶は田崎で鐘の重みと悪路のために傷んだ大八車を修理すると、気を取り直して府中の国分寺を目指し、無事二つの釣鐘を寄進したということです。







 
*1 釣鐘
寺院の鐘楼などに吊してある大きな鐘。
*2 府中
律令制下の国府。または、その所在地。常陸国の国府は現在の石岡市にあった。
*3 国分寺
奈良時代、聖武天皇により五穀豊穣・国家鎮護のため、国分尼寺と共に国ごとに建立させた寺。奈良の東大寺を総国分寺とした。
*4 寄進
神社や寺院などに金銭・物品を寄付すること。
*5 大八車
二輪の大型の荷車。八人分の働きをする車の意。

 
参考資料
「茨城の伝説」(今瀬文也・武田静澄共著)
「茨城の史跡と伝説」(茨城新聞社編)
「石岡市史 上巻」(石岡市編)

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