ふるさとの昔ばなしシリーズ 桜川市

法身国師

むかし、鎌倉に幕府*1があった頃のお話です。ある日、真壁城主の真壁時幹は、法身国師*2(法心禅師*3)という名高いお坊さんが城下に滞在しているのを聞きつけ、お城にまねいて仏の話を聞くことにしました。

法身国師は、時の権力者、北条時頼*4の頼みで松島の円福寺(後の瑞巌寺)を中興*5したり、現在の青森県に法蓮寺を開いたりした高僧でした。


法話が終わると、その教えに心を打たれた時幹は法身国師にお礼を言い、丁重にもてなしました。


すると、法身国師は、「殿はお忘れでしょうが、私は三十七年前に下僕*6として殿にお仕えしていた平四郎です。」と言うのです。そして、古びた下駄をふところから取り出しました。


「あれは雪見の宴の時でした。特に寒い夜でしたので、私は殿の下駄をふところで暖めておりました。お帰りのときに暖めた下駄を差し出したところ、いきなりその下駄でひたいをなぐられたのです。殿は私が下駄の上に腰をおろしていたと勘違いされたのです。その時は殿をうらみ、いつか偉くなって見返してやろうと決心し出家しました。でも今は殿になぐられたことを感謝しております。あのことがなかったら私はずっと下僕の平四郎だったでしょうから。」と言うのです。


時幹はこの話を聞いてたいそう驚き、むかしの非礼を心から詫びました。そして、法身国師のために天目山照明寺を建立したのです。


この寺は後に改名され伝正寺となりました。桜川市真壁町桜井の山麓にあり、古くから「どっこい真壁の伝正寺」と呼ばれて親しまれています。


法身国師は、文治五年(一一八九年)、現在の筑西市猫島の高松家の生まれと伝えられています。


四十歳代でこの地を離れた平四郎が、厳しい修行の末に天下の名僧となって故郷真壁に戻ってきたのは、実に七十九歳という高齢になってからのことと言われています。



*1 鎌倉幕府
源頼朝が鎌倉に開いた日本最初の武家政権。源氏将軍は3代で絶え、その後、北条氏が実権を握ったが、1333年滅ぶ。
*2 国師
中世以降、朝廷から高徳の僧に贈られた称号。
*3 禅師
朝廷から禅宗の高僧に与えられた称号。
*4 北条時頼
(1227年~1263年) 鎌倉幕府の五代執権(将軍を補佐し政務を統轄した最高職)。
*5 中興
いったん衰えたものを再び盛んにすること。
*6 下僕
召し使いの男。下男。


参考資料
「筑波町の昔ばなし(上)」(仲田安夫著)
「茨城 ふるさとのむかし話」(藤田稔編)
「茨城の寺(一)」(今瀬文也著)
「筑波山麓の仏教」・「真壁の名僧」(真壁町歴史民俗資料館)
「茨城の史跡は語る」(茨城地方史研究会編)