巡礼坂(北茨城市)
北茨城市大津町の五浦旧街道からややはずれた所に「巡礼坂」という細長い坂道があります。この坂には名前にまつわる悲しい母娘の話が残されております。
かつてこの坂は土器塚と呼ばれる台地に通じており、そこには観音堂があって、参拝者が多数行き来しておりました。
ある雪の降る寒い日のこと、日も暮れかかるころ、母親と娘の巡礼*1が観音堂を訪れるためにその坂を上っておりました。
ところが、坂の途中で母親が持病*2の癪*3をおこして動けなくなってしまったのです。
娘は雪をしのげる場所に母親を休ませると、薬を飲ませるための水を求めて坂を下っていきました。
あちこち探し歩き、やっと清水の湧きでる所にたどりつきましたが、娘は寒さと長旅の疲れで力尽き、その場で亡くなってしまったのです。
症状が治まった母親は娘の帰りを待ち続けておりましたが、やがて、娘の死を知らされることとなりました。
母親は悲しみのあまり半狂乱*4状態になって娘の名を叫びながらさまよい歩いた末に五浦の磯にたどりつきました。
母親は磯で娘の姿のような形をした石を見つけると、その石をいとおしむように抱き、娘の名を呼びながら海に入っていってしまったのです。
それ以来、五浦の磯の石は持ち帰るなといわれるようになりました。持ち帰った石が、夜中に「かえしておくれ。かえしておくれ。」と悲しげに泣き、持ち帰った人は眠れぬ一夜を過ごすことになるからだそうです。
このうわさが広まると、人々は「五浦の夜泣き石」として恐れたということです。
巡礼坂の上り口には、里の人が巡礼母娘の霊を慰め、供養するために昭和三年に建てた「巡礼追悼碑」があります。
また、娘が汲んだ清水は、いまは井戸となっており、「掬水の井戸」と呼ばれています。道を挟んだ反対側にありますが、現在は涸れて形をとどめるだけとなっています。
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参考資料
- 「茨城の伝説」今瀬文也・武田静澄共著
「地域のロマンを探る 北茨城文化サロン研究誌Vol.1」(北茨城文化サロン10周年記念事業実行委員会編)